「サンフレッチェの母」をしのんで。突然この世を去った、あるスタッフの話。(中野和也)#sanfrecce

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2013年1月、僕は母を失った。
高校1年の冬に倒れて以来、36年間もほぼ寝たきりだった母だった。とっくに、覚悟はできていた。

亡くなった知らせを受けた時、僕はサンフレッチェ広島の鹿児島キャンプの取材に同行していた。新しいチームの動向を気にして、公式モバイルサイトに掲載する僕のレポートを心待ちにしているサポーターがいる。カープと比較して報道量が極端に悪いサンフレッチェ情報を、少しでもお届けしなければならない。仕事に穴は空けられない。

僕は一日だけ、休みをとらせてもらった。通夜と葬式のあと、すぐに鹿児島へと戻る決意を固めた。母は確かにこの世を去った。だが35年間、この日がくることはずっと心のどこかに刻んでいたこともあり、ここでは書きたくない様々な思いが駆け巡って僕の胸中は複雑だった。むしろ、早く仕事をしたかった。仕事をして、気持ちを吹っ切りたかった。それが、母を送るために自分ができることのような気がした。

小さな、本当に小さな斎場で、僕は母を送った。これが彼女の人生の結末だったと考えると、悲しさは確かに募った。だが、心を支配する感情は、それだけではなかった。自分の中で決着をつけられないものが、トラウマのように存在する。それはきっと、自分が背負っていかねばならない業のようなものなのかもしれない。

その2年前、僕は義父を病気のために失っている。母と同じ、くも膜下出血だった。28年前、リクルートのアルバイトの身分だった僕と妻の結婚を認めてくれただけでなく、フリーとして独立する時も、紫熊倶楽部を創刊した時も、心から応援してくれた。かつては愛媛新聞の社会部長を務め、自ら企画した「ブラジルでの愛媛出身者たち」を現地で取材し、当初は「やってもいいが旅費を含めた経費は認めない」と言っていた会社側を自らの原稿の質で納得させた、大記者でもある。記者としても人間としても最高に尊敬している義父が意識不明となった時、見舞った僕と妻を握ったその手に、無意識のまま力が入った瞬間が、忘れられない。

母にしても義父にしても、倒れてから亡くなるまで時間が存在した。それ故に、ある種の心の準備はできていた。だが昨年、またしても「くも膜下出血」で大切な人がこの世から先立たれてしまった時は、全く予測できなかった。信じられない運命だ。

その人の訃報を聞いた時、僕は悪い冗談だと思って、取り合わなかった。「そんなことを言うものではないから」と言い返そうとした。だが、その知らせを僕に告げたサンフレッチェ広島の広報の目は、沈痛だった。

え?
いやいや、それはない。
だってほんの数日前、僕は元気な姿を見ていたんだ。昨日もフェイスブックに乗せていた記事を、確かに読んだんだ。

昨日まで、普通に仕事をされていたんです。
でも今日、会社に来られないし電話にも出ない。メールを出しても、返ってこない。だから……。

スタッフの言葉はもう、そこから入ってこなかった。
事実は、たった1つ。
澤山文枝さんが亡くなった。
サンフレッチェ広島というクラブの根底を支えてきた、一人の偉大な女性が、お亡くなりになったということだ。

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